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ルドルフ (オーストリア皇太子) : ウィキペディア日本語版
ルドルフ (オーストリア皇太子)

ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(, 1858年8月21日 - 1889年1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の子で皇太子ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死を遂げた(「マイヤーリンク事件」)。その死については、今もなお謎に包まれている。
== 生い立ちと教育 ==

エリーザベトに代わって、厳格な祖母ゾフィーにより、ハプスブルク=ロートリンゲン家の方針に従って養育された。当初、祖母がルドルフに付けた教育係の伯爵は、鞭打ちや冷水シャワー、過酷な運動等の軍事教練まがいのスパルタ式教育を押し通した。精神と肉体を痛めつける教育の影響により、ルドルフは暴力的で神経過敏かつ虚弱体質の、恐怖心の強い子供となった。またルドルフは内気で意固地で、事あるごとに自分の殻に閉じ籠った。
1865年、ゴンドレクールの教育の影響を憂いた母エリーザベトが公式に親権を取り戻すことを要請し、7歳以降のルドルフの教育方針は一転する。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー帝国の思想基盤となったのは自由主義思想であるが、その思想を支えた政治家や教育関係者と親交の深かったエリーザベトが付けた教育係はであり、彼が選抜した教師のほとんどが、多かれ少なかれ何らかの形で自由主義との関連を持っていた。このことが、成人後もルドルフが自由主義を信奉し、自らの出自にもかかわらず貴族に対して批判的な態度を取ったことの原因である。また、ラトゥールはルドルフがその生涯を通して連絡を取り続けた、いわば精神的な「代父」であったと言える。成人後のルドルフが、今日もオーストリアで発行されているリベラル系新聞『』紙の前身である『新ウィーン日報』編集長だったを通して、後にフランスの首相となったジョルジュ・クレマンソーの知遇を得るようになるのも、ラトゥールら自由主義者の手引きによるものである。
18歳になるまでの教育期間においてルドルフに関わった教師は同時に30人以上いたこともあると言われるが、この人数は19世紀後半当時の王侯貴族の教育状況においては、とりわけ極端に多いとは言えない。例外的なのは、前述のようにこれらの教師たちの多くが、保守的な王侯貴族の教育とは正反対といえる自由主義の信奉者だったことである。そのためルドルフは、父フランツ・ヨーゼフ1世の保守的で時代遅れな思想とは異なり、母エリーザベトと同じ自由主義的な思想を持っており、そのため父帝に強く反発し、その絶対君主ぶりを激しく非難した。一方、公務を放棄し、家族との接触が少なかった母エリーザベトは各地に旅行に明け暮れていたため、彼女は息子ルドルフの理解者とはなり得なかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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